見返りを期待してはいけない。自分の行為は全て自分がしたいからするのであり、その行為を相手に押し付けるようなことは絶対にしたくない。
私の行動基準のひとつですね、これ。

他人に深入りしすぎないように心がけてはいるのですが、いざ何か事が起きると私は自分に関係ないことでも、まるでその当事者のように考えたりしているようです。それがいいことかどうかはわかりませんが、その人のために一生懸命考えたり、お話をしていることはよくあります。そのせいかはわかりませんが、悩み事を打ち明けられることもよくあります。
お話をするのは好きですから苦にはなりません。むしろ自分なんかを頼ってくれるのですから、とても嬉しかったりもします。ただ、その人からの連絡が急に途絶えたようなとき。まだその人が悩み事の中にいるのに、突然連絡がなくなったとき。気にはなります。なるんですけど、そこで野次馬的に「どうした?」って聞くのもなんか違うし。その人から再び連絡が来ることを待つしかないのですが、まぁこんな性格です。結構心配なんですね。どうしたんだろう?大丈夫なんだろうか?それはもう、悶々とするわけです。
自分の言葉がそんなに貴重な助言であるとは思ってませんし、その人にとってためになっているかはわかりません。だから、押し付けるようなことは言いたくないですし、仮にその人にとって私の言葉が役に立ったとしても、それでどうこうするつもりもないですし。冒頭の文章はそういうことですね。

言葉は「言霊」だといいます。言葉を自分の中にしまっているうちはただの言葉ですが、自分の口から相手に発せられたとき言葉は意味を持ち、その人にとって影響を及ぼします。これが昔で言う「祝詞」であり「呪文」であったりするんですね。発した側に意図があるかどうかはもう意味をなさず、受けた側の状況でどのような影響が出てくるかが決まってしまう。もちろん、発した側が意図的に言葉に意味を持たせ、その意図通りに相手を縛ることもできます。
考えてみれば恐ろしいことです。自分の不用意な発言が、相手にとっては「祝」とも「呪」ともなりうるのですから。

地位が高い人、指導者、組織の代表、占術を行う人、そういった他人に影響を強く及ぼすような人は特に意識をしてほしいし、私達のような特別周りに強い影響を及ぼすことのない人でも考えなくてはならないのでしょう。
最近のニュースを見るとそう思います。

コメント